好奇心のまま~瀬谷道子が見つけたこと

インタビューしたり取材して、はっとしたことを紹介。いいこと、楽しいことはまだまだこんなにあるよ

過去のエッセイ塾の講義から

九月のエッセイ塾のテーマは「動詞を使いこなす」でした。
あるジャーナリストは  「現代は名詞が氾濫し、動詞が乏しくなっている」と言います。
 昔はなじみの動詞が暮らしにたくさんあったとのこと。鉛筆を削る、薪で風呂をわかす、お米をとぐ、雑巾で床を拭く等々。それが便利で簡単になっていって、手や頭でなくて、指一本でできるようになってしまった。スマホを連想してしまいます。
 失われていったのは「感じる」こと。体で感じる。体で知る。それは体で学ぶことでもありました。先のジャーナリスト氏曰く、「動詞は抽象的なことが苦手で、人の体の動き、心の動きに寄り添っているところがある」。
 そういえば毎日って、起きる、食べる、歩く、しゃべる、出会う等と、動詞の繰り返し。
それが生きるということでした。
塾でよく紹介するのが作家・三宮麻由子の作品。子どものころ視力を失った方です。雨が降る場面の描写をどうぞ。
「トタン屋根にあたって短い余韻を残す平たい雨、門柱に落ちてカアンと小気味よく散る雨、路肩に転がった空き缶に見事命中してキーンと歌う雨~足元のアスファルトにも一面に雨滴が降り注ぎ、響きのない不思議な広さの音をたてていた。~自分から音をたてないために、ふだんは私にとってほとんど無に等しい存在である街並み。それが雨の日だけ世界でたった一つしかない楽器に生まれ変わり、~次々音を紡ぎ出しては私の鼓膜にぼんやりと輪郭を表してくれる。その輪郭を物語る音が空中で混じり合うのを聞いていると~雨の日だけの特別な景色を楽しむことができる」
降る雨でこんなに感情がわき、世界が広がるなんてとても想像できません。雨はテレビの天気予報で知り、出掛けるのに面倒になるではないかと邪魔モノ扱いにするのがほとんど。
 今日は昨日の続きと、ちゃんとモノを見たり、真摯に聞いていないことに愕然とします。