好奇心のまま~瀬谷道子が見つけたこと

インタビューしたり取材して、はっとしたことを紹介。いいこと、楽しいことはまだまだこんなにあるよ

東日本大震災で被災した方に会って

福島原発放射能漏れが広がりをみせる四月四日。いわき市から埼玉に住む息子のところに逃げて来たA子さん(五五歳)を訪ねました。 
 避難してきたのは、2号機が水素爆発してすぐの三月十四日。自宅は原発から三十三キロ。自宅で避難していたところ、津波で避難所にいた人たちが続々避難所を移動する姿を見て、「ここは危ない。逃げよう」と、夫と長女とほとんど何も持たずに出て来ました。自宅避難している人たちには情報はなかったのです。
 自宅から数百メートル先は海。数百軒近くあった家は瓦礫と化し昨日までの風景はどこにもありません。
夫の会社は原発から二十キロ圏内の、福島県双葉郡楢葉町の工業団地。再開の見通しはありません。
 長女の友人のひとりは行方不明のまま。おととし結婚し、昨年生まれた赤ちゃんと里帰りしていたところでした。最初全員避難したのですが、残した犬が気になり、車で戻ったまま。もうひとりは祖母と体の不自由な兄を亡くしました。
「無念なのは放射能が怖くて行方不明の人たちを探しに行くこともできなかったこと」と怒りをぶつけます。
 いわきは、A子さんの故郷です。ここで育ち、結婚し、これからもここで生きると決めた土地です。
「家を出るとき、もう戻れないだろうと覚悟した。家はそのままなのに住めない、畑があるのに作れない。その悔しさが分かりますか。原発さえなかったら復興できるのに」
兼業農家のA子さんは友人たちと安心で安全な野菜をたくさん作って農協に入れようと、夢を広げていたところでした。
「事情があってとどまっている人もいるし、戻った人もいる。そこに仕事があるのですから。でも放射能数値を気にしながら暮らしていかなければならないなんておかしい」
長女も戻るかどうするか揺れています。「会社からは出てくるようにと言われていますが、家族がどうなるか分からないので戻る気持ちになれない」。
五十代の夫は、埼玉で職探しです。夫の仕事が見つかるのかどうか、模索中の日々です。