好奇心のまま~瀬谷道子が見つけたこと

インタビューしたり取材して、はっとしたことを紹介。いいこと、楽しいことはまだまだこんなにあるよ

戦争はまだ終わっていない

 戦争責任を棚上げにしたままの政府ですが、戦争とがっぷり関わる女性たちのいさぎよいこと。
踊りの師匠・Mさん(六八歳)は、一九八六年、韓国慶州のナザレ園を訪ねて以来公演をやめ、ナザレ園協力会を立ち上げ、その活動を中心とする暮らしに切り替えました。四十二歳のときです。
一九七二年設立されたナザレ園は、終戦後、朝鮮半島に取り残された日本人妻たちを一時保護するため金龍成氏が自費を投じてつくった施設。
 入所者はもう八十代以上で、寝たきり、車椅子の人も目立ちます。「知った以上は見捨てるわけにはいかない。全てを失い、満たされない心で生きるその人たちと向き合っていきたい。だからもう踊りはいいと考えた」
 一九一〇年、朝鮮を「併合」した日本は、朝鮮人天皇に忠実な「日本人」とするため、日本語の使用や日本名への「創氏改名」などを強要。内地と朝鮮は一体という「内鮮一体」を国策にし、日本人女性と朝鮮人男性の結婚を奨励。終戦直後の韓国には約二万人の日本人妻がいたといわれます。
 事態が一転したのは日本の敗戦後。三十六年も日本の植民地化で苦しめられた韓国では解放とともに反日感情が強くおこり、日本人妻は日本語を禁止され、夫の家族から疎まれて戸籍から抜かれたり家を追われ、穴倉などで何十年と生きていたのです。
 こんな話も聞きました。日本への最後の引き揚げ船が出るときでした。
 ある女性は日本兵に「日本人であることを証明しろ」と迫らます。住所、親の名前を言ってもとりあってくれず、「四大節(四方拝紀元節天長節明治節)を言え」と言う。ひとつが出てこないまま、船は出てしまいました。
 今ナザレ園にいる人たちはみんな四大節が言えます。何度も練習したのでしょうか。
 事実を広く知らせたいという思いで作詞した「慶州ナザレ園」は、「一九八六年、クラウンレコードから神戸一郎の歌で発売に。曲に振り付けもつくり、踊りが役に立ちました。
「自分だけでは描けなかった絵をいろんな人が描いてくれる。踊りだけでは得られなかったものです」