好奇心のまま~瀬谷道子が見つけたこと

インタビューしたり取材して、はっとしたことを紹介。いいこと、楽しいことはまだまだこんなにあるよ

変化や速さ、恐れないで

10年近く続けたある新聞に掲載のエッセイの最終回がやっときました。こんなに長いコラムもないので、途中で何回も悩んでしまいました。新聞社の都合もあるのに、受け入れていただき申し訳ない限り。

 

なんでも閉め方ってあきらめも抱えているようです。まだやれる、やりたい、熱いものは抑えようもありませんが、ふっと考えればそれは自分可愛さかな。おいおい、あんただって相当くたびれてんだから、と言われそう。

 

 私はコラムの執筆依頼があると、誰のためでもない、自分が書きたいものを書いてきました。この新聞のコラムの場合も、この時代を感じる思いが同じ同世代だからこそ読者の方と通じ合う嬉しさがありました。ここは怒るぞ! 声を上げるぞ! ここは行かなくちゃ! すぐ応えてくださる。こんなコラムは少ないでしょうね。

 

 歳を重ねてきました。探しモノは日常茶飯事。二階に行ったものの、何を探していたか忘れてしまう。夫にはダメねえと言っている手前、そんなことおくびにも出せず、黙って探し続けている私。今に忘れたことも忘れるかも。

 

ある本に「思い出も喜びも攻撃性も欲望も、自分が徐々に会得したもの。若い日の行動を忘れてしまうことも新しい経験だ」とありました。年齢を重ねることを「新しい経験」なんて、いいですねえ。変化や速度を恐れてはいけないということでしょう。

 

20代で記者になってインタビューした方はゆうに3000人を超えました。そのたびに自分にない豊かさに魅せられるものの、すぐ元の自分に戻ってしまうふがいなさ。日々は当たり前のようでいて、きっとおもいがけない場所なんですね。

 

このコラムではだんだん家族についてのテーマが増えていましたが、家族は自分の顔と同じで選ぶことはできません。人が出会う最初の限界でしょう。ちっとも自分を分かってくれないと悩んでいるなら、、誤解されない人間って毒にも薬にもならないと言うし、そういう人は何か欠けているんじゃないのと批判されるほど。堂々としていましょう。

 

文芸評論家の方に会ったときのこと。コロナでなかなか外に出られなかった時、森を歩いたそうです。すると思いがけない感動が湧いてきました。頭でなく、心でなく、細胞のひとつひとつが森の空気を喜んでいるという感覚。コロナの自粛の期間、何に飢えていたかを気付かせてくれたと言います。

 自分に優しくすることを自分に許してあげる。それが年齢を重ねる醍醐味でしょうね。