作家・エッセイストの阿川佐和子さんの『聞く力』を再度読んでます。
阿川さんとはNHKで会いました。私も20歳から新聞の仕事に入り、事件モノもあるので、会った人は軽く2千人は突破しているはず。そのたびに相手を「わかる」準備を念入りにするのですが、やはり会ったときの感触で、質問します。
同じような仕事をしているよそ様は一体何を申されるのか、興味をそそられました。
考えさせられたひとつは、そもそも人は誰でもみんな呼吸をするようにインタビューをしていることでした。道を尋ねる。値段を問う。時間を教えてもらう。おしゃべりを聞く。人はインタビューに始まり、インタビューで終わると言えそうです。
聴く人、尋ねる人によって受け止め方、答え方が違ってくる。いい加減に聞く。迷惑そうに聞く。熱心に聞く。阿川さんはそこに「聞く」面白さがあるのだとか。
私も講演をするとき、よく話すのは、聞き手が「こんな話つまんない。来なきゃよかった」と思うや、講演が終わって椅子から立ち上がったとたん、何も頭に残らないということです。覚えていないのです。聞こうという思いがないかぎり、声は届かないのですね。
補聴器は機種によって全ての音を拾ってしまうようですが、人の耳はほしい音だけが入ってくるようです。
考えさせられたもうひとつは、笑福亭鶴瓶さんをインタビューしたときの、「会話は生もの」という言葉。
インタビュアーというのは、聞きたいポイントがある。でも実際会ってみないと、聞けるかどうか、いやどうなることか分からない。人はその日の体調、気分で違うからです。
阿川さんは芝居や演劇に例えて「演者はその日の観客によっても驚くほどのパフォーマンスを見せる。だから同じ芝居も何度も観に行く」
料理もしかり。常連の店のささいな味の変化を微妙に感じわけてしまう私たち。「ちょっと変わったわねえ」と、店では口には出さねど、もう二度とその店には行かない「こわ~い」私たちなのです。
でも、移ろいやすい人の本質を味わってこそ、「けっこうでした」と言いたくなりませんか。
会話はもっと刺激的で、そのときの雰囲気で二人の間にどんな化学変化が起こるか分からないというわけ。
私もインタビューしつつ、「生もの」の新鮮さを堪能しています。