「私の三丁目の夕日」という作品を宮城県のAさん(72歳)が送ってくれました。映画にもなった「三丁目の夕日」。昭和30年代のノスタルジックな思い出の町に、心が喜ぶと言います。
Aさんの実家は印刷所でした。近所の人は「かっぱん屋」と呼び、「なぜカッパなの?」と幼心に悩んだそうな。
用足しをすると父親がくれる5円玉のお駄賃には、インキとタバコの臭いがしました。小学生の頃。授業が終わって帰る道端にはカラフルなヒヨコが売られていたり、紙芝居のおっちゃんが迫力ある声を上げていたり、駄菓子屋では粉末ジュースにみなが群がっていました。
立ち読みしたくなる本屋を通り過ぎると、「クラブポチカ」という社交場。早足になっていました。
通りの向こうにタイコ焼き屋があり、前掛けを腰で止めたおっちゃんが汗を拭きながら一生懸命焼いています。見惚れていると、尻尾までアンコの詰まったパリパリのタイコ焼きが出来上がるのでした。ここは夏はかき氷を売ります。ガラスの器にたっぷり入っていたかき氷。てっぺんをギュッと固めて、こぼさないよう慎重に食べようと、ドキドキしました。
この店の先はラーメン屋さん。特別な日にしか連れて行ってもらえません。銭湯では湯上りにコーヒー牛乳を買ってもらうのが待ち遠しかった。貧しかったけれど、楽しみを待つ嬉しさがあったのです。
町には一軒の映画館があり、時代劇や任侠ものを上映していて、ドスのきいた声が外まで漏れていました。夕方になると映画館の人が手招きしてタダで入れてくれ、終わる頃父親が迎えにきたものです。
忘れられないのが琥珀色のカンロ飴。母親が小づちでトンと叩き、細かく割って包みごと手のひらに乗せてくれました。
楽しみは父親がパチンコに行くと持ち帰るみつ豆の缶詰め。なぜか赤いサクランボは一個しか入っていなくて、いつも兄妹で奪い合いのバトルが始まります。お終いにはお互い泣きだしてしまい、やっと勝ち取ったはずのサクランボがしょっぱかった。
ある日、「今日のは入ってねえなあ」と言う父の口にちゃっかり入っていたこともありました。
昭和30年代は贅沢はできなかったけれど、食べ物を通して親の愛情を深く感じた日々だったようです。
さて、今はどうでしょう。こんな作品が書けるかなあ。