Sさん(六十三歳)の夫が若年認知症と分かったのは五十五歳のとき。世話好きで学校や地域の役員も引き受け忙しい日々。
しかし出かけにいつも何か探すことが多くなり、病院へ。告知した医師に「生存は十年」と言われたとか。
夫は会社には通い続けていたが、数字がひと桁合わなかったり、パソコンができなくなったりとまごつくことが増え、退職。
結婚まもなく義父を看取ったSさんは、夫の発病後に認知症になった義母の介護もあり、二人を連れて通院することもあった。
退職後、映画に行くとでかけることが増えた夫。しかし帰るとポケットには電車の切符が何枚も。映画館までたどりつけなかったのだろう。
「これからは一緒に行動しようね」と、それからは夫婦で映画に、観劇にとでかける。穏やかな夫婦の日々だったことだろう。ところが症状がすすみ、便器を見ても便が出たいのか尿なのかも分からなくなり、箪笥のなかに放尿することも。
義母は病気の息子を見るのが耐えられず、部屋に閉じこもったままになった。そっとふすまを開けて見ていた姿が、かわいそうでならなかったという。
デイケアに行くようになって夫はぐずった。「お前も行こう。いつでも一緒と言ったじゃないか」とSさんの手を離さない。
病気が進行していく姿をずっと見続けていく苦しさ、肝心の脳がだめになってしまった姿に、いとおしさを覚えるSさん。看護に明け暮れる自分自身のことなんて考える余裕もなかったという
そして三年前、六十四歳で亡くなった。亡くなる数か月前、肺炎にかかったことがあった。「こんな状態で死なせてなるものか」と必死だったSさん、
夫も「肺炎なんかで死んでなるものか」とスプーンで食事ができるまでになったのだが。食べることは生きることだからと食べることに執着したという夫婦だった。
葬儀のとき夫の友人がこんな話をしてくれたという。「ある日、自転車で訪ねて来て、俺、頭がおかしくなって家が分からなくなるって。あちこち友人のところを回っていたらしいんですよ」
夫へのいとおしさが募っていた。